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暑中信州寒晒蕎麦


 高遠発祥の将軍家献上品
 元祖「寒晒し蕎麦」をお召し上がりください

将軍様がお召し上がりになった寒晒し蕎麦

◆ 御前そば 信州更科蕎麦所 布屋太兵衛
高遠藩主 保科正光が将軍家光の異母兄弟「正之」を養子に迎えたことにより廃嫡された保科正貞は、後に「上総飯野藩」の初代藩主となりました。
その第三代藩主 保科兵部少輔正賢は、藩出入り太物商の八代目清右衛がそば打ちが上手であったため、そば屋になることをすすめ、清右衛の故郷の更級郡の「更」と自らの保科家の「科」を与え、『信州更科蕎麦所 布屋太兵衛』と命名しました。清右衛はそば屋を開業し(現在の「永坂更科 布屋太兵衛」)、徳川将軍家に「御前そば」の名を許され、その後、江戸城大奥や諸大名の御用を務めることになりました。

このことから、暑中信州寒晒蕎麦も『更科』一門の監督のもと将軍様にご提供されたと考えられます。


◆ 江戸時代のそば
有楽町更科 四代目店主 藤村和夫氏によると、江戸時代の更科のそばは次のようであったとまとめていらっしゃいます。
  1. 「抜き」を尺二寸ほどの石臼で挽き、70メッシュほどの長方形のフルイでふるい、歩留まり70%ほどの粉を作る。
  2. つなぎを使わない生そばが人気があったが、長時間置いておく場合は、小麦粉のつなぎを入れる。
  3. 「水まわし」は、粟粒を小豆にし、小豆を大豆にし、大豆を蚕豆にし、ツヤが出たら寄せる。
  4. そばの長さは八寸
 ※抜き:玄ソバの外殻をとったそばのことで1600〜1650年の間に開発され江戸に定着して
     いった「のど越しの良いそば」を作るための玄ソバの加工品
 ※現在の純白の「更科粉」は江戸時代の末期に発明された「白髪そば」といわれた別物。
  「更科粉」の歩留まりは100〜120メッシュで15%ほど。

また、江戸時代には御定法としてそばの麺の太さが職人の間では「並そば 切りべら23本、細打ち 切りべら40本」と決まっており、並そばの麺の太さは約1.3mm、細打ちは0.8mmくらいの切り幅になります。

◆ 江戸時代 将軍様がお召し上がりになった『暑中信州寒晒蕎麦』を再現
以上のことより、将軍様がお召し上がりになった『暑中信州寒晒蕎麦』を再現してみると次のようになります。
「製粉」 石臼製粉の後、70メッシュでふるい、歩留まり70%で仕上げる。
  
「そば打ち」 生粉打ちし、長さ24cm、0.8〜1.3oの幅で切る。
      (茹でると太さは1.2〜2.0o程になる)
こうして出来上がった「暑中信州寒晒蕎麦」は甘皮をあまり含まない、薄っすら黄みがかった半透明のそばになります。
見た目は美しく、のど越しもよく、モチモチシコシコとした食感と、ほんのりとしたそばの風味と強い甘さを感じる、まさに将軍様に献上するに値する気品のあるそばです。


伊那市では、この将軍家献上品である「暑中信州寒晒蕎麦」の名をそのままに冠して、商品化を行いました。販売店舗一同、かつて将軍様がお召し上がりになった寒晒し蕎麦を皆様にもお召し上がりいただくため、当時のものにできる限り近づけて再現した、「暑中信州寒晒蕎麦」の名に恥じない寒晒し蕎麦の提供をめざし、製粉やそば打ちに日々研究を重ねております。


高遠そば組合

長野県伊那市高遠町小原