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暑中信州寒晒蕎麦


 高遠発祥の将軍家献上品
 元祖「寒晒し蕎麦」をお召し上がりください

将軍様がお召し上がりになった寒晒し蕎麦

1. 寒晒蕎麦の発祥の地「高遠」
寒晒蕎麦は地元では「寒蕎麦」と呼ばれ、遅くとも江戸時代初期には作られていたと言われています。ソバを寒晒しにするそもそもの目的は、収穫後にソバ穀粒に付いた虫の卵を殺す事だったそうです。ソバ穀粒に付いた虫の卵は、梅雨頃になると羽化し、ソバの品質を著しく落としてしまいます。それを防ぐための手法として考え出されたのが「寒晒し」です。
寒晒蕎麦の製法は、1697年発刊の「本朝食鑑」に「臘月(陰暦十二月)、殻のついたままの好い蕎麦を三十日間水に浸し、立春の日に取り出し、曝(さらし)乾してから収蔵するもの」と記載されています。
しかし、ソバは長期間水を含んでいると雑菌が繁殖し、腐敗する可能性が出てきます。また、温かいところで水を含んだままにしておくと発芽し、品質が劣化してしまいます。
1か月もの間、水に晒し、その後も腐らせることも発芽させることもなく乾燥させるためには、非常に寒くかつ乾燥した気候でなければいけません。寒晒蕎麦が作られていた高遠藩の入野谷郷という地域は、標高が900〜1200mあり、冬は−20℃を下回る非常に寒い日もあり、また、雨や雪もあまり降らない乾いた地域になります。この気候が寒晒蕎麦を誕生させたのです。

2. 江戸における寒晒蕎麦の評価
江戸幕府の開府当時の江戸では、そばはぼそぼそとして食感が悪く、色は褐色で、味はアクっぽく、食べるとおなかを壊す人もいて、全く人気のない食べ物でした。そこでそば職人たちが工夫を凝らし、外殻を脱皮し、甘皮もなるべく挽き込まないようにすることで、えぐみを取り除き、食感を滑らかにし、のど越しをよくする手法を開発しました。この手法は「あくぬき」と呼ばれ、江戸では「上等なそばの代名詞」となっていきます。
そして、この「あくぬき」の中の最高位に位置付けられたのが「寒晒蕎麦」でした。玄そばの段階から川に晒すことによりアクを抜き、さらには外殻を脱皮し、製粉時にも甘皮をなるべく挽き込まない「あくぬき」製粉を施した寒晒蕎麦は、色が白くて、味が軽やかで、コシがあり、のど越しのよいそばとなります。1751年発刊の「蕎麦全書」でも「寒晒しそばは、味ひ軽く性平にして佳きなる物なり」と書かれています。
また、江戸時代の本草書である「本朝食鑑」には「寒晒そばは尤も中(あた)らない(下痢をしない)」とあります。ソバには縮合型タンニンが比較的多く含まれていて、たくさん食べるとおなかを壊す人もいることが分かっています。しかし、寒晒蕎麦はその原因物質の縮合型タンニンが川に晒すことで減少し、「あくぬき」製粉することで、さらに縮合型タンニンが減少します。おなかの弱い人でも下痢をしない、体にも優しいソバであったことが江戸時代にも言われていたことになります。
このような特別なそばである「寒晒蕎麦」は、大名間の贈答品にもなっており、江戸では非常に人気が高く、貴重なそばだったと言われています。

3. 将軍家への献上品「暑中信州寒晒蕎麦」
江戸で人気が高まった寒晒蕎麦は、1722年に高遠藩から将軍家への暑中(夏の土用[現在の7月中下旬〜8月初旬])の時献上品「暑中信州寒晒蕎麦」として、以後幕末までその献上は毎年続きました。高遠藩の初献上から67年後の1789年には、諏訪高島藩からも「暑中寒曝蕎麦(かんざらしそば)」として献上が始まっています。
将軍様もお召し上がりになった、色が白く、味が軽やかで、細くてコシがあり、のど越しもよく、ほんのりと甘味を感じる高遠藩の将軍家献上品「暑中信州寒晒蕎麦」をどうぞお召し上がりください。


高遠そば組合

長野県伊那市高遠町小原